| >ネットのいいところは相手の顔を見ずに、また自分の顔を見られずに思ったことを言いあえるところだと思う。また、時間の自由が利くという点も便利なところだ。確かにこういった便利なことは多々あるが、自分はどうしてもなじめない。確かに議論を交わすことは楽しいことだ。しかし、ネット上だけで終わって欲しくない。相手の顔を見て話し合いたい。でなければ伝わらないことがあるはずである。 >情報技術の発達はこれからの時代の基盤になっていくだろうが、それによって人間対人間の関係が失われていくのが残念だ。 そもそも、チャットや掲示板など、インターネットによる対話に、これほどまでに人々がのめり込む背景には、私権主体としての存在理由の喪失に伴い生起しつつある承認欠乏(とにか誰かに認めて欲しい、わかって欲しい・・・)の上昇と、その想いとは裏腹に孕む対人関係上の”壁”(警戒心・・・他者に心が開けない)の結果、あえて”顔の見えない”相手との繋がりを求めるという構造があるからではないでしょうか。 ここで、インターネットの位置付け、存在価値を再度確認してみる必要があると思います。つまり、インターネットは集団統合と社会統合の、どの位置に存在すべきなのか?ということです。 ある個人が、自我を制御し、期待と応望の充足感を日々感じ、活力源として生きるためには、実際にそれを体感できる集団の存在は不可欠であり、また、そういったナマの体感充足なしには、あらゆる規範も身につかないし、力とは成り得ない。その意味で、昨今の”人間関係の希薄化”は、共認動物たる人類にとって、致命的な問題であるといえます。ここに、本源集団の必要性・・・集団統合課題が存在します。 次に、そういった単位集団を単位とした社会が、活力を失わずに維持されるには、(市場社会に代る)どのような社会システムが必要か?(ex.どのような集団間の同類闘争圧力を設定するか?)という社会統合課題が存在しますが、これは、既に集団課題の次元を超えており、一定の多様性を許容する集団統合とは異なり、万人が認める普遍性をもったものでなくてはならず、よって、万人がその形成過程に参画すべきものであり、また、理論・・・純粋観念思考の地平にあるため、双方向性をもち、また、言葉のみを媒体としたインターネットが適しているのではないでしょうか。 つまり、集団統合と社会統合の2段階構成の社会において、万人による社会統合を可能にするのがインターネットではないか・・・ということです。 現代は、個人と社会の中間に位置することで自我を止揚し新たな活力を創出すべき集団を欠いたまま、バラバラの個人が自我、私権を活力源に競争するという社会システムが限界点に達しており(活力源たりえず)、活力衰弱による滅亡を回避するためには、単位集団(体感共認→規範共認)と、インターネットによる社会統合理論(観念共認)双方の構築が急がれます。 |
| 越見東太 |
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